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藤目節夫のブログ

まちづくりに関することが多いですが、それ以外にも、徒然に思うことを書きます。

身銭を切る

まちづくりの考え方

 政治家が地元へ利益をもたらそうとして、土木亊業をはじめさまざまな亊業を地元に誘導しようとする政治を、利益誘導型政治という。この型の政治の代表が田中元総理が新潟県に対して行った政治だとするむきがあるが、私は彼だけが特別だとは思わない。政治家なら誰でも次の進挙のために地元へ利益をもたらすことに日夜腐心しており、また選挙民がそれを望んでいる。

 斯く考えると、田中元総理のかつての政治力の大きさを斟酌しても、新潟県が不当に大きな利益を得ているということにはならないのではないか。政治力による多少のデコボコは認めるとしても、マクロ的に見ると地域の規模に、そして地域間格差是正という大原則に従って、ある一定の予算額が配分されているとの説が穏当ではないかと思われる。

 かつてこのコラムで、同じ予算を使うなら本四架僑3ルートを1ルー卜にし、2ルート分の予算は島内の高速道路に回した方が交通システムとして望ましいと述べた(2ルート分の予算で四国縦貫・横断道が完成し、さらにおつりがくる)。すでに指摘したように、四国に来る予算総額がもし決まっているならば、四国島民が一方で望んでぃる高速道路は3ルート要求のために整備が遅れた、と言えなくもないのである。

 斯く言う根拠を、はたまた証拠を示せと言われても困る。そんなものはない。しかし、国家予算が限られており、他地域と比較してさしたる特別の理由もあると思えないのに、四国にだけ特別枠があると考える方が不自然ではないのか、と私には思われるのである。

 配分されるパイの大きさが一定なら、非効率な要求は得策ではない。一般に「予算を分捕る」と言う。分捕るとは言うまでもなく、他人のものを略奪することである。文字通り分捕るのなら、国家経済的に非効率であろうと地域にはそれだけ余分の予算が転がり込む。分捕りたいのは人情である。

 自分の捕り分を自分で捕るのは分捕りではない。しかし現在の政治システムでは形の上では地方に分捕らすようになっていて、要求をしなければ何らの予算も地方に回って来ない。従って、私がいくら委曲を尽くして結果的には分捕りにはなっていないと言つても、その結果に至る過程は分捕りそのものゆえ、我が説に迫力がない。

 斯くしていずこの自治体も過程としての分捕り合戦をやる。それは我が田に水を引くようなものゆえ、全体として非効率なこと論を俟たない。しかし非効率だとして要求しなければ他が要求して奪う。

 この状況を打開するためには政治システムの変更しかない。「地方の時代」と言われて久しいが、その実感は未だない。真に地方の時代なら、国税地方税の税収割合(現状6:4)を、国と地方の支出額の割合(4:6)に合わせて、地方に渡す金(地方交付税)を増やしてはどうか。いかなる事業に予算を使うかは地方が選択する。非効率な投資をすればその分地方が損をする。

地方の時代は「選択の時代」である。より良い選択、それは「身銭を切る」という感覚から生まれる。この感覚は、もとより、困惑顔で拱手傍観していて醸成されるものではない。身銭感覚が身に付くうまい仕掛け・システムを考える必要がある。

ここで2人の才人のアイデアを紹介したいが、その前に凡人(小生)がかつて、授業料に関して学生に戯れに話した「身銭感覚醸成法」を紹介しよう。学生は高い金(授業料)を払って授業を受けているのであるが、この認識がきわめて薄い。その証拠に、かつては休講になると「万歳」と喜んでいる学生が大半であった。そこで教壇に箱を置き、これに授業毎に1コマ分の授業料を入れさすことにする。さすれば、「○○先生の講義は休講、授業料だけ箱に入れろ」と言えば、学生は文句を言うであろう。かくして身銭感覚が次第に醸成され、多少は勉強にも身が入るというものである。この案の弱点は、肝心の金は親が払うので、果たして学生の尻に火が着くかということであるが・・・。

さて、凡人の戯言はこの程度にして、二人の才人の身銭感覚醸成法をご紹介しよう。その二人とは、経営の神様・松下幸之助氏と、名エッセイスト・山本夏彦氏である。二人とも役所の税金の無駄遣いをなくす方法に言及しているが、奇しくもその提案内容は酷似している。役所はご承知のように、年度予算を立てて事業を実施する。もし年度末に事業は無事に終了し、しかも予算が余れば、民間ではめでたいことこの上ないが役所はそうではない。予算が余ったと見なされ、次年度の予算は減額されるのである。それゆえ、予算は余すことは許されず、無駄でも使い切ることが至上命令となる

そこで二人の才人の提案は、ある事業で予算を余らせれば、その額に応じて事業担当者にボーナスを支給せよ、というものである。なるほど、このやり方なら職員に無駄を省くインセンティブが働き、身銭感覚が醸成されることになるだろう。この提案で重要なことは、理ではなく利でもって目的を達成しようとすることである。無駄遣いは不正義である、ゆえに止めなければならない、と理をもって諭すのではなく、ボーナスという利でもって導くのである。

金で釣るのは汚い、理で諭すべきだと思われる方も多かろう。美しい考えである。しかしそれは、あまりにも人間の本性を知らない物言いではないか。だって、これまで理で諭して何十年、一向に無駄遣いが止まないのが現実なのだから。とすれば、人は理で動かないという結論はすでに出ていると見るべきではないか(もとより、何事にも例外は認めるが)。そう考えると、2人の才人のアイデアは、荒唐無稽どころか、人間の本性を熟知した提案ではないかと思われるのである。才人と呼ばれる所以である(愛媛新聞・四季録、昭和62年3月17日、一部修正加筆)。

 

跋語

 本四架橋と高速道路の話は少し古くなったが、ここで指摘した身銭感覚の喪失の問題は、残念ながら、依然として古くて新しい問題である。ある種の社会的な問題があるとき、個人の気づきと正義感で解決を図る必要性がしばしば強調されることがある。それが有効な場合がないとは言わないが、多くの場合は正義と気づきだけに期待していては解決できないであろう。ちなみに、小生が役人になったとしても、現状の予算システムでは、恥ずかしながら同じことをやるだろうと思うのである。恐縮であるが、読者諸氏の多くも私と同意見ではないだろうか。システムの改変が必要な所以である。

ところで、税金の無駄遣いといえば、近年の「ふるさと納税」の仕組みは、もともと納税意識の低い国民の意識をさらに低下させる悪法中の悪法であると思っているが、これについては稿を改めたい。