藤目節夫のブログ

まちづくりに関することが多いですが、それ以外にも、徒然に思うことを書きます。

一億総アマチュア

  かつてテレビが出現した時に「一億総白痴」の時代が来ると予測したのは、確か大宅壮一氏であると記憶している。この伝でいくと現代は「一億総アマチュア」の時代ではないかとひそかに思っている。一億総アマチュアとは、本来はプロが行うべき仕事が次第にアマチュアにとって取って代わられるようになり、その結果、本当のプロを探すのが極めて困難な、そして本当のプ口を知らない人が大半を占めるような時代が来つつある、というほどの意味である。

 卑近な例で恐縮であるが、かつては飲み屋の女給(今流だとスナックのホステスと言えば良いのか)もプロであった。彼女たちは、初めて店に来た客の好みと教養の程産をほんの僅かな会話から見抜く必要があったし、また、その程度に応じて客を楽しく飲ませて帰らせる話術を磨く必要もあったであろう。

 それが力ラオケの出現である。客の好みや教養関係なし、話術を磨く必要これまたなし、ひたすら客に歌を歌わせれば良いのである。今や彼女たちに求められているものは、客が歌い終わった時の拍手と、下手な歌でも「うまい」とお世辞を言うことだけである。かくして飲み屋の彼女たちもアマチュアで勤まる時代が来たのである。

 何も一億総アマチュアは飲み屋の彼女たちだけに限らない。最近はファースト・フードの大はやりである。アメリカから輸入されたもの、日本で考え出されたものといろいろあるが、いずれもアマチュアが食べ物を作るという点においては甲乙ない。アマチュアが作った物が売買されるのは、刑務所で受刑者が作った家具などの例外を除くと、有史以来のことではないかと思っている。ファースト・フードだけではない。他の飲食店においても一部の例外を除くとこれと大同小異であること、外食された経験のある方なら先刻ご承知であろう。

 商店の店員もまた然りである。商品についての知識などまるでない者が多く、客への応対の仕方を知らない者が実に多い。ひどい時には、客が「ありがとう」と言い、 店員が「どうも」と言う始末である。 どこぞの歌手のように「お客様は神様です」と思えとは言わないが、客があって商店が成り立つのである。 然らば店員がありがとうと言うべきこと、小学生にも解る道理である。

 アマチュアの蔓延実に嘆かわしい、と書こうとしてふと気がついた。これは自分にとって良い時代が来つつあるのではないか。 何故なら、今に大学の教師 もアマチュアでやっていける時代が来るであろうから、いや既に来ているという指摘もある。ならば、それほど慨嘆する必要はないと留飲が下がったのである。(愛媛新聞・四季録、昭和61年10月7日)

 

跋語

 30年前の一億総アマチュア化が、現在では一億総マニュアル化に姿を変えたと言えばよいのであろうか。近年、プロフェッショナルに関するテレビ番組が人気だが、ここに登場するような極めつけのプロでなくとも、日々の暮らしの中に自らの仕事に誇りとプロ意識を持った人がもっと多くいたと思うのですがね。

 このエッセーは、四季録の第1回目なので力を入れて書いたつもりなのだが、力み過ぎで未熟さが散見され、今となっては汗顔の至り、と言うところでしょうか。ただ、この駄文で訴えたかった趣旨については、30年経ってもあまり修正をする必要はないなあ、という感じですかね。