藤目節夫のブログ

まちづくりに関することが多いですが、それ以外にも、徒然に思うことを書きます。

グリーンジュース

 古い話で、また私事にわたる話で恐縮であるが、私が小学生の時、学校にグリーンジュースを売りに来る人があった。グリーンジュースの材料や作り方は今もって詳らかでないが、多分野菜の搾り汁に砂糖を加えたほどのものであったろう。学校側は健康によいということで、希望者には購入し学校で飲むことを許可したが、現在なら「子供の間に不平等が生じる」として学校側は許可しないであろうことは想像に難くない。

 私は故あって許可する方が良いと思っているが、それはともかく、私も人並みにこれを買ってほしいと思った。そしてある朝、母親に買ってくれるようにねだったが、母は頑として私の願いを聞いてくれなかった。理由は簡単で、わが家には金が無い、ということであった。 私はA君もBさんも、はたまたC君も買ってもらっており、ただ一人自分のみが買ってもらってない、と多少誇張して母に訴えたが、願いは叶わなかった。

 昔のことなので、その時私が母に向かって言った言葉を正確に記憶していないが、多少母を非難する言葉を残して家を出た。子供心に少し言い過ぎたと思ったのだろうか、塀の節穴から中を覗くと、そこには涙を流す母の姿があった。私は、常日頃からわが家は貧乏だと聞かされていたが、その時それが事実であることを身をもって悟った。爾来、私は余程のことがない限り母親に強要しなくなった。

 このような家庭の経済状態だから、私は親から財産らしい財産は譲り受けていない。私が親から譲り受けた唯一の財産があるとすれば、それは貧乏精神ではなかったかと思っている。金は譲り受けなかったが、金の大切さ、使い方について、また我慢するということについては多少なりとも教えられたような気がする。

 私は、学生時代は日本育英会奨学金と家庭教師のアルバイトが唯一の収入源のため、貧乏学生で金に困ったこともしばしばであったが、社会人になってからそのような経験がない。金に困ったことがないと言えば、さぞかし高給を貰っていると思われるかもしれないが、ご承知の通りの国家公務員の給料である。私が言っているのは、自分の給料の範囲の中でできる生活をしているということである。私は、家・土地は別にして、ローンでは絶対に物を買わない。結局高くつくこともあるが、給料の範囲の中で生活する、という親から譲り受けた唯一の財産を失うような気がするからである。

 既にお気づきのように、私は、金持ちの子供にだけでなく貧乏人の子供にも譲り受ける財産があると言っているのである。もしあの時、家計の苦しさを隠して母がグリーンジュースを買ってくれ、はたまた私が要求するがままにおもちゃ等を買ってくれていたら、グリーンジュースと幾らかのおもちゃは手に入れることができたであろうが、それは私の財産にはならなかったであろうと思うのである。

 国民の大多数が中流意識を持っている今日、貧乏意識など流行らないものの一つなのだろうか。(愛媛新聞・四季録、昭和61年11月11日、一部修正加筆)

 

跋語

 国民の8,9割が中流意識を持っていた時代に書いたものである。私の家では貧しくてグリーンジュースを買ってくれなかったが、当時は他の多くの家でも、子供がねだるものを簡単に買い与えることは少なかったように思う。子供は買って貰うための常套手段として、友達は買って貰っていることを強調したが、多くの家での対応は「よそはよそ、うちはうち」であったように思う。それでも子供が納得しない場合には、「そんなに買って貰いたいなら、よその子になれ」と言ったものである。それぞれの家で独自の子供の教育方針を持ち、それをある程度貫けた時代であったように思う。

 現代は様相が全く異なるのではないか。子供に惨めな思いをさせないのが親の愛情であると単純に思い、他の子供と横並びにしてやることをもってよしとする風潮が蔓延している。それなのに、一方で、個性ある人間に育てとしきりに言う。

 「よそはよそ、うちはうち」という考え方・育て方を、もう一度見直す必要があるのではないだろうか。これも含めて、古人の考え方・価値観・生き方から現代人は学ぶべきことは多いと思っている。